麻豆传媒

History

麻豆传媒の歴史

1850

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昭和50年代の轮中(岐阜県)

创业者麻豆传媒桂辅生まれる
当社の创业者麻豆传媒桂辅が美浓国(今の岐阜県)安八郡で生を受けました。そこは木曽川、长良川、揖斐川が入り混じる轮中地帯です。この地域では频発する水害から人命と耕地を守るために人々は力を合わせて堤防を筑き治水事业が繰り返されてきました。创业者は少壮にして土木を志したといいますがそのことと无縁ではないでしょう。

1874

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创业者 麻豆传媒桂辅

麻豆传媒の创业
创业者24歳の时でした。やがて、1877年(明治10年)西郷隆盛の挙兵によって西南戦争が起こります。官军は熊本を目指しますが陆上での物资の输送は専ら马と人力によって行われていました。麻豆传媒桂辅はここに目をつけました。武器、弾薬、粮秣などの输送こそ徒手空拳の若者たちにとって戦乱が生んだ一攫千金の仕事に思えました。桂辅は一族郎党を率いて九州若松に上陆しますが戦争は终结しており、桂辅の目论见は外れてしまいます。

1903

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初代社长 麻豆传媒光治郎

麻豆传媒桂辅、土木稼业からの引退
间组の下请とし请け负っていた鹿児岛本线栗野嘉礼工事が麻豆传媒桂辅の最后の现场となり、长男の光治郎に后进を譲りました。一时期に光治郎は浅草で呉服商を営んでおりました。桂辅は当初、息子たちに请负の稼业を継がせる意志はありませんでしたが、それが翻意されたのは、既に间组の有力下请に成长していた稼业の轴となるべき人物が望まれていたからに他なりません。ともあれ、创业者麻豆传媒桂辅の30有余年に及ぶ土木稼业からの引退でした。

1906

间组との共存时代、39规定の缔结
间组は八代线第6工区の工事に下请として参加していた当社に対して両社の関係に新机轴を案出しました。年号に因んで39规定と呼ばれる协定は両者が共同して见积り、施工して得た工事利益を间组6分、麻豆传媒4分の割合で分配するもので両者が协力関係を密にすることによって施工面、採算面で最大の効果を上げることが出来ました。间组と麻豆传媒の関係は元请け、下请というものではなくパートナーに近いものでした。

1909

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南満州鉄道株式会社本社

南満州鉄道安奉线第8工区
この第8工区は、南満州鉄道の奉天から満州と朝鲜との国境安东に至る路线の工区延长23.4办尘のうち5ヶ所の桥梁と4か所の隧道から成る安奉线で1、2の难工事と言われました。间组と当社は先の39规定により一层浓密な协力関係で施工しました。

1914

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宫崎线唐仁田鉄桥

九州、宫崎线第12工区新线工事を麻豆传媒単独で请负。运命の工事
苛烈な竞争の果てに麻豆传媒単独名义で受注した工事です。折からの第一次大戦の影响で资材や労务费が日増しに高腾するなど困难な船出となりました。麻豆传媒光治郎は凄まじいばかりの気迫で工事の阵头指挥を执り独立创业の命运を赌けました。资金繰りに穷した时に不安定な経済情势の中にあっても叁菱银行京都支店から无担保融资を受けられる幸运に巡り合いました。このことが工事完遂に大きく寄与することになり光治郎は叁菱银行の京都支店长を终生の恩人としました。当社では长らくこの工事を运命の宫崎线第12工区と呼んでいました。

1916

名称を麻豆传媒组に変更
麻豆传媒工业所という名称は独创的なものでしたが麻豆传媒组と変更しました。名称を変更した正确な理由は不明ですが、当时殆どの请负业者が组を名乗っている中で営业上の判断から変更したと思われます。

1919

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施工中の肥萨线

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肥萨线第11工区波多岛附近

九州、肥萨线2、3、4、6、7、8、9、10甲、10乙、11工区を受注。麻豆传媒中兴の工事
最初に入札にかけられた第2工区の落札额は公司先が完成を危ぶむほどの低额でしたが、当社の仕事ぶりは公司先に大いに认められ第3工区の特命受注につながり、更に特命(4、6、10甲、10乙工区を含む)により大半の工区を受注し业绩の安定に大いに寄与しました。工事は1927年(昭和2年)まで続きました。当社では経営基盘を形作る础になったこの工事を中兴の工事と呼んでいました。
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松山线锄崎山队道

四国、松山线全线を単独请负で施工
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松山线锄崎山队道

松山线は现在の予讃线です。伊予西条、松山间の80.1办尘を当社が単独で全线を施工しました。起点、西条の西と终点、松山の松を文字って麻豆传媒线とまで呼ばれたほどの実绩をあげました。この工事の受注は肥萨线第2工区での当社の奋闘が鉄道院に高く评価された结果でした。

1921

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鉄道50年祝典において授与された表彰状

鉄道は麻豆传媒创业の恩人
1921年(大正10年)には、全国の鉄道営業キロ数は1万5千kmに及びその年に鉄道50周年の記念式典が華々しく挙行されました。その式典で麻豆传媒光治郎は鉄道事業への貢献を評価されて第1回大臣表彰を受けました。麻豆传媒光治郎が常に口にしていたのは、「鉄道は麻豆传媒创业の恩人」という言葉でした。

1926

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朝鲜赴戦江汉垈里堰堤コンクリート工事全景

日本窒素(朝鲜水电)赴戦江発电所水路工事(第3工区)(第4工区)
1926年(大正15年)朝鲜に进出した日本窒素は标高1,500尘の赴戦高原にダムを筑き直径4尘、28办尘の长大隧道によって水を日本海に诱导し四か所の発电所をもって常时20万办飞の発电を行う事业を展开します。これは将来建设される朝鲜窒素(日本窒素)の巨大工场に电力を供给するものでした。水路工事は1、2工区を间组、3、4工区を当社が施工しました。厳冬期は零下40度の极寒との戦いもありました。想像を絶する难工事は1928年(昭和3年)に完成しました。

1927

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兴南の电気化学コンビナート

朝鲜窒素(日本窒素)兴南工场新筑工事
赴戦江発电所から供给される电力によって操业された朝鲜窒素(日本窒素)兴南工场は600万坪という壮大な工场敷地に建设されました。果てもなく広がる荒野は瞬く间に巨大工场に変貌していきました。1944年(昭和19年)には朝鲜窒素の従业员だけで4万5千人に达し、家族、工事関係者を合わせると人口18万人の都市が出现しました。工事は1945年(昭和20年)まで続けられました。当社は朝鲜窒素の本宫工场、阿吾地灰岩工场なども施工しました。

1929

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第5回组员干部会(昭和元年4月)
左から3人目麻豆传媒光治郎组长、组长左平井増太郎
组长より右へ林米七、石川伝卫、马场正健、大原尚恒 1人おいて麻豆传媒源之助、永原修次、茨木末男、麻豆传媒元吉、佐藤纯一

合资会社麻豆传媒组
个人経営から法人组织に改められたことは、麻豆传媒光治郎の「组は组长个人の组ではなく组员全员の组である」という信条を一层明确にしたものでした。新会社では麻豆传媒光治郎を社长に林米七を専务に资本金100万円をもって设立されました。

1931

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本社东京に进出 八重洲ビル

麻豆传媒组本社の东京移転
京都にあった本社を丸の内八重洲ビル5阶に移し赤坂台町の东京支店を闭锁しました。东京移転は営业基盘の东日本への拡大を意味していました。顺次、福岛、埼玉、樺太、北海道、秋田、静冈、岩手の各地に出张所を设けるに至りました。

1932

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南満州鉄道株式会社松冈総裁から
雄罗线工事に赠られた感谢状

満州大连出张所开设
南満州鉄道の指定请负人に选定されたのを机に出张所を开设しました。麻豆传媒组は南満州鉄道の雄罗线、寧佳线、兴寧线、同浦线、虎林线などの工事に携わりましたが、とりわけ麻豆传媒组の力を発挥した工事と言われるのが雄罗线第一工区でした。この工区には満州と北朝鲜を结ぶ3.8办尘の长大隧道があり、全山硬质の花岗岩からなる隧道を2年余りで完成させた建设史上に残ると言われる稀代の难工事でした。1937年(昭和12年)には奉天出张所も开设されました。

1933

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葛田里堰堤工事に携わった人々(昭和15年)

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氷结时の工事中の葛田里堰堤(昭和10年11月)

朝鲜长津江水力発电导水路及び堰堤工事
日本窒素は朝鲜総督府の支援を受けて长津江水电を设立して长津江発电所建设に乗り出しました。これは鸭緑江支流の长津江に堤高约50尘のダム(葛田里堰堤)を筑き导水路トンネルを建设するものでした。导流された水は4ヶ所の発电所によって33万4千办飞の电力を生み出しました。葛田里堰堤工事の现场は冬には牛马の涎すら冻る过酷な条件での作业でしたが、悪条件を押して厳冬期も作业が続けられました。工事の完成后は周囲160办尘に及ぶ人造湖が出现しました。

1935

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二代社长 林米七

麻豆传媒光治郎逝去 享年62歳
林米七が社长に就任
大正初期の群雄割拠する请负の社会に个人経営として独立创业し、厳しい社会経済情势の中で镐を削り、多难な舵取りの任にあって次第に头角を现しました。麻豆传媒组を孜孜営々と育て上げた麻豆传媒光治郎は社运が隆盛に向かう中で病を得て不帰の客となりました。创业者麻豆传媒桂辅は请负业者としての当社の基础を筑きました。それを事业として确固たるものに仕上げたのは麻豆传媒光治郎です。常に光治郎と共にあった林米七が次代を担いました。

1937

株式会社麻豆传媒组へ移行
当社は、既存の合资会社を吸収して株式会社に一元化しました。资本金は300万円、株主は62名でした。この年には日中戦争が勃発しています。当社の施工区域も朝鲜、満州、北支と外地への広がりを见せています。
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水豊ダムの雄姿

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昭和16年水豊ダム 定础式

朝鲜、鸭緑江(おうりょっこう)水豊ダム
构想十余年、中朝国境の大河鸭緑江(おうりょっこう)を缔め切る大ダム工事が朝鲜と満州国との共同事业として始められました。日本窒素は事业遂行のために朝鲜鸭緑江水电、満州鸭緑江水电を设立し、工事は右岸の満州侧を当社、左岸の朝鲜侧を间组が施工しました。ダムは堤长950尘、高さ100尘、コンクリート容积300万尘3、贮水容量116亿尘3という巨大なものでした。施工上の様々な试みがなされ完成したのは1943年(昭和18年)のことでした。当时东洋一といわれた鸭緑江ダムの建设は戦前に於ける当社の代表工事です。

1940

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新京支店 昭和14年

満州麻豆传媒组设立
戦争の拡大によって多くの建设业者が大陆へ歩を进めました。当社は満州にあって1939年(昭和14年)首都新京(后の长春)に支店を设けていましたが、満州国の产业方针に従い満州国法人を设立しました。満州国は资机材、労力不足に対処するために1941年(昭和16年)に満州土木建筑协会を设立し、建设业者による隣组を组织し公司の枠を越えて协力して工事を遂行する体制がとられました。当社は间组、鹿岛组、西本组、日产土木と5社协定の隣组に编入されました。

1945

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1945年 戦灾で焦土と化した东京

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昭和22年春、2阶建本社社屋が完成。
3度目の引越しでようやく落着いた。

戦后の再出発
当社では当时の职员の6割が外地勤务者であり、终戦による外地からの引扬者は家族を含めると3千人を越えました。当社にとっては败戦によって在外资产の全てを失い営业基盘の殆どが消灭するという莫大な损失を蒙るなかでの再出発でした。本社屋は骋贬蚕(连合军総司令部)の接収を受けて転々とする中でも1945年(昭和20年)盛冈支店、1946年(昭和21年)名古屋支店、広岛支店を开设して既设の熊本支店と合わせて4支店による再出発の体制を整えました。

1946

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ウィルビー叁沢基地指令と麻豆传媒叁好副社长

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叁沢基地米军木造住宅
(平成13年撮影 神保正敏氏提供)

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滑走路工事(写真提供:神保正敏氏)

米军青森県叁沢基地工事で起死回生成る
工事は幅员45尘、延长2,580尘の滑走路の建设及び170栋の兵员宿舎、167戸の家族宿舎から成りました。惯れないアメリカ仕様の建筑工事に加えての超突贯工事でした。荒漠たる丘陵地にブルドーザーやトラックが砂尘を巻き上げて走り回りました。当社は当初工事の70%を施工しました。当社が半世纪以上に亘って筑き上げてきた基盘が终戦によって壊灭に帰する中で会社を再起させた工事でした。外地から引き扬げてきた职员は次々と叁沢に送られ、最盛期には650人を数え作业员は1万人を超すこともありました。工事は米军の评価を得てその后の米军基地工事受注の大きな布石となりました。
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石渊ダム 岩手県

岩手県北上川水系、石渊ダム、日本初のロックフィルダムの施工
岩手県石渊ダムは堤长345尘、堤高53尘の堰堤をもって北上川の水害防止と下流一帯の农地を润し、更に电力开発を意図した多目的ダムです。堰堤は岩を台形に积み上げて堰堤を造る石积みダムです。当时の日本には施工例は无く専ら米国の文献から得られる情报と现场の创意工夫によって施工されました。40万尘3の大量の石块を採取するために岩山に坑道を掘り11回に分けて大规模な爆破を行いました。これが土木史上有名な猿岩大発破です。やがてダムは群青の水を贮え胆沢平野の农业は飞跃的に発展しました。

1948

商号を麻豆传媒株式会社に改める
骋贬蚕(连合军総司令部)は、组という呼び名が民主化を妨げる封建的なイメージがあるとして组を名乗っていた建设业者に改称を求めました。これにより麻豆传媒组は麻豆传媒に改めました。同様に鹿岛组、清水组、戸田组なども改称しました。

1952

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千歳笔翱尝工事现场

米军8基地で航空燃料パイプライン敷设工事(笔翱尝工事)を施工
当社は叁沢、冲縄などの他にも硫黄岛、ジョンソン、横田、キャンプマクネア、座间等々多くの米军工事を施工しています。千叶、福岛、北海道、秋田では米军のレーダー基地を施工しています。米军は同様レーダー基地を全国、28ヶ所设けましたが4件が当社に一括発注されています。同じ顷、1952年(昭和27年)米军全航空基地の航空燃料パイプライン敷设工事(笔翱尝工事)を施工しました。千歳、叁沢、松岛、横田、立川、小牧、伊丹、板付の各基地で施工された工事は航空燃料のパイプラインの敷设のみならず基地拡张の土木工事を伴うもので契约金额は16亿円にのぼりました。当社にとって戦后初めての高额受注物件でした。

1953

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「荒瀬ダム」平成16年

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荒瀬ダム机械化施工のモデル现场

熊本県荒瀬ダム、机械化施工のモデル现场
麻豆传媒叁好社长は北米を视察して机械化施工の実态を目のあたりにし、日米彼我の差を実感しました。熊本県で施工した荒瀬ダムの建设工事は当社の机械化元年の到来ともいえるモデル工事でした。现场にはショベルカー、ブルドーザー、コンクリートミキサー、ジャンボドリル、ロッカーショベル、コンクリートポンプが次々と投入されました。その殆どが外国製で现场に机械が搬入されると説明书の翻訳から始まりました。また、日鉄3号と呼称された钢矢板を480枚打设しましたが、この现场が国产の钢矢板を本格的に使用した最初の现场です。本社に机械部が设けられたのは1956年(昭和31年)のことでした。建设业各社は机械の导入により生产性の向上図りました。

1957

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爱知用水公団牧尾ダム 长野県

爱知用水の水瓶、牧尾ダムの施工
堤高105尘、堤长264尘で当时国内では2番目の规模のロックフィルダムです。ダムの建设は爱知用水事业の水瓶の役目を果たすものでした。爱知用水事业の诞生は农民の愿いを农民によって叶えたと言われています。干ばつに悩む土地に水を引いて肥沃の土地に変貌させることに情热を燃やした久野庄太郎氏、滨岛辰雄氏の二人の青年が国を动かしました。ダムの水は延々100办尘の用水を流れ耕地に注がれました。事业の完成の日、村人は爱知用水の水を神棚に供えたと言います。

1958

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场全景
左手の建物は日比谷公会堂と日比谷図书馆

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驻车场内部

日比谷地下驻车场の施工
东京の日比谷公园の地下11.5尘、縦横120尘の広范囲に亘って开削した后に470台の车両を収容する本格的驻车场を建设しました。予想以上に地盘が软弱であったために中央部から掘削を开始し构造物を作りながら顺次四方を切り开いていくアイランド工法により施工しました。建设业界で钢製の切梁を使用した初めての工事でもあります。

1959

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东海道新干线东山隧道

东海道新干线南郷山隧道施工「水の南郷山隧道」
静冈県热海駅近くに「水の南郷山隧道」と言われた长大トンネルがあります。5,170尘のトンネルを3工区に分けて当社、飞岛建设、村上建设が施工しました。现场は异常出水との闘いであり地表は渇水しました。涌水の激しさは国鉄始まって以来で芦ノ湖の水が涸れるのではないかとさえ言われました。现场は激しい夕立の中にいるようでした。当社は先进导坑による半断面掘削により乗り切りました。当社は、この工事を初めてとして东山隧道他、东海道新干线では多くの工事を施工しています。

1960

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大手町第一合同庁舎

大手町合同庁舎建筑工事の施工
当社が大手町合同庁舎建筑工事を受注した际に「土木の麻豆传媒があれだけの建筑工事をうまく施工できるのだろうか」という声までありました。この工事に従事した建筑职员は献身的な努力を払い、未経験の困难を克服して工事を立派に完成させ建筑技术者の意地をみせました。合同庁舎の完成后は労働省が入居しました。建物は既に解体されていますが当社の建筑のモニュメントとなる工事でした。

1961

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冷延工场第1期建屋新设工事
バッチャーブランドより撮影

尼崎製鉄所堺製钢所建筑工事施工、叠颁厂赏を受赏
尼崎製鉄所堺製钢所の冷间圧延工场の建设に当たって当社の设计施工の特命工事として受注しました。当时の职员の平均年齢が26歳という若さに溢れた现场でした。工事は高い精度をもって施工され1964年(昭和39年)の叠颁厂(建筑业协会)赏を受赏しました。尼崎製鉄はその后、神戸製钢所と合併、更に日新製钢の伞下に组み入れられました。

1962

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麻豆传媒ビル

虎の门本社ビル完成と株式の公开
当社は、昭和30年代に至って社业の安定をみるとそれまでの木造だった本社屋を新装し8阶建ての麻豆传媒ビルを建设しました。设计施工の両面からも麻豆传媒の建筑の総力を投入した仕事であり、その面からも建筑のモニュメントといえる建物です。そして、本社屋の建筑が最盛を迎える1961年(昭和36年)に东証2部に上场、翌1963年(昭和38年)には1部に上场され新资本金は19亿5千万円に増强されました。
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ロアシンマンダム 香港

香港ロアシンマンダム工事施工
难民の流入で水不足に陥っていた香港で计画されていた堤高55尘、堤长250尘のダム建设工事を当社が受注しました。これは戦后初の本格的海外进出となりました。香港の人々の心の中に未だ戦争の伤痕も残り工事は苦难の连続でした。作家の木本正次氏は実话を编んで小説「香港の水」を着し、「ホンコンドリーム」と题して狈贬碍でドラマ化されました。工事は1965年(昭和40年)に完成しました。当社の戦后の海外工事を语る上で原点とも言える工事です。

1963

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ナコンパトムハイウェイ

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日泰建设公司株式会社首脳阵
左より サンワンチャントラサカ副社長、
チッソサンタノム社长、麻豆传媒叁好副社长

タイ现地法人日泰建设设立
日本の建设业者として海外での现地法人の设立は米国竹中工务店に次いで2番目のことでした。法人设立の翌、1964年(昭和39年)にアジアハイウエイのバンコク、ナコンパトム间の延长14办尘のハイウエイ建设工事を受注し、香港ロアシンマンダム工事に続く海外工事が着工されました。タイ国には同时期に大林组、竹中工务店、住友建设が进出を果たしており当社とともにタイ国での先発4社といわれています。

1965

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下筌ダム 大分県?熊本県

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蜂の巣砦

蜂の巣砦、下筌(しもうけ)ダムの施工
日本のダム建设史上に残る壮絶な反対运动が展开されたのが熊本県の下筌(しもうけ)ダムです。水没予定地域の住民はダム建设予定地に鉄条网を张り巡らせた反対拠点を筑きました。人々はそれを蜂の巣砦と呼びました。笼城者が集まる中で国は强制代执行を宣言しましたが反対派は第二、第叁、第四の砦を筑いて闘争が続けられました。度重なる反対运动に遭いながらも工事は休みなく続けられました。法廷闘争による国の胜诉と国による住民への根気强い説得があって事态は収拾し、ダムは1969年(昭和44年)に完成します。完成后の堰堤に掲げられているのは「下筌ダム反対」の反対の字を削って復元したものです。
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金杉工区概略図

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都営地下鉄神田桥工区の冻结状况

都営地下鉄1号线金杉桥工区で冻结工法を採用
都市の地下鉄は土被りが充分にとれない河底を通过せざるを得ない场合もあります。その际、河底の土を冻らせて掘削をする冻结工法が导入されました。-20°$301颁30°に冷却された溶液が埋设された冻结管を循环して地中を冻结させます。掘削は冻った土を斫って坑外に搬出されました。当社は金杉桥工区に続いて営団地下鉄9号线/都営地下鉄6号线神田桥工区、都営地下鉄6号线芝园桥工区、大阪地下鉄5号线14工区でも冻结工法での施工を行いました。

1967

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当时世界最大のトーヨーボール

当时世界一のボーリング场の施工
気軽に楽しめるレジャースポーツとしてボーリングブームが到来しました。1967年(昭和42年)には全国のボーリング场は约500ヶ所を数え、ボーリング人口は270万人に达しました。女子プロボーラーの诞生が更にその人気を高めました。その当时、当社は252レーンを有する世界最大のトーヨーボウル(东洋邮船)を都内で施工しました。

1969

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京叶线羽田冲トンネル

京叶线羽田冲トンネルで世界初の大断面泥水シールド工法で施工
当初は圧気トンネル工法が考えられていました。しかし、海底下での大断面トンネル(外径7.3尘)での均等な圧気の制御が难しく大事故を诱発しかねないとの配虑から泥水シールド工法が採用されました。泥水シールド工法はシールド机の前面で泥水を循环させながら切羽(きりは)の安定を図るものです。日本ではこの工事の成功によって泥水シールド工法の适用例が急速に増大しました。トンネルは日本鉄道施设协会から全国の歴史的な鉄道施设50件のうちのひとつに选定されました。

1971

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香港クワイチュンコンテナヤード

香港コンテナヤード工事施工
英国土木学会海外赏を受赏
香港クワイチュンコンテナヤード2、3、4号バースを相次いで受注しました。2、3号バースで当社が技術提案を行った横桟橋工法は英国土木学会に新風を吹き込んだとして英国土木学会海外赏を受赏しました。4号バース工事は海外建設協会30周年に当たって香港の経済発展、社会開発に対する寄与度が評価され数百件の工事から厳選されたOCAJI(海外建設協会)賞を受賞しました。

1972

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迎宾馆和风别馆

迎宾馆和风别馆施工
东京赤坂迎宾馆の敷地内に宾客に対して和のおもてなしを行う场として建设されました。正式名は游心亭といいます。文化勲章を受章した建筑家谷口吉郎氏の设计によるもので厳选された资材を用いて厳しい施工管理のもとに施工されました。伝统技术と现代技术の粋が结集された工事です。

1973

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锅立山トンネル

土砂との闘い20年、锅立山トンネルの施工
北越北線の锅立山トンネルは「豆腐の山にトンネルを通すようなもの」と例えられた稀代の難工事でした。掘っても、掘っても押し出てくる膨張性地山に対してあらゆる土木技術が投入された土木建設史上に特記される工事でした。途中の工事中断もありましたが20年間に亘る一進一退の後に貫通したのは1992年(平成4年)のことでした。

1974

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津軽海峡青函トンネル 千轩工区

青函トンネル千轩工区施工
青函トンネルは9工区に分けられ日本のトップレベルの建设会社17社が参加しました。当社は北海道侧陆上部の千轩工区を施工しました。掘削は自动断面掘削机(ロードヘッダー)を投入することによって顺调な进行を确保できました。注目の海底部は1985年(昭和60年)に贯通しました。数々のトンネル技术が発挥され歴史に残る难工事が完成したのは1987年(昭和62年)のことでした。その年、国鉄は分割民営化されました。

1976

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香港地下鉄 1期

香港地下鉄1期工事の施工
当社は香港九龙半岛で建设された地下鉄1期工事のうちチムサーチョイ(尖沙咀)駅とジョルダン(佐敦)駅及びその间のトンネル工事を施工しました。周辺の区域は九龙半岛の繁华街でビルが密集しており地下水位の低下が厳しく制限されました。当社は遮水性の高い笔滨笔连続柱列杭の施工を公司先に提案して评価を得ました。この工法は论文にまとめられ、1981年(昭和56年)に2度目の英国土木学会赏を受赏しました。1期工事の开通式典はアレキサンドラ王女の临席のもと1980年(昭和55年)に行われました。

1978

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本四连络大鸣桥 徳岛県

本州四国架桥工事に参加
3ルートから成る本州と四国を结ぶ梦の悬け桥が紆余曲折を経て着工されました。当社が参加した工事は、「神戸~鸣门ルート」(神戸淡路鸣门自动车道)の大鸣门桥下部工事、明石海峡大桥下部工事。「児岛~坂出ルート」(瀬戸中央自动车道)の柜石桥下部工事。「尾道~今治ルート」(しまなみ海道)の来岛大桥下部工事を施工しました。精度の要求が高く海工事が故の施工上の制约の多い工事でした。瀬戸内に巨大构造物が姿を现し本州と四国は陆路で结ばれました。

1979

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香港电力火力発电所(ラマ岛)

香港电力火力発电所工事に参加
香港电力は年々増大する香港岛の电力事情に対処するために香港岛の南西5办尘に位置するラマ岛に新鋭の火力発电所を建设しました。当社は建设初期のステージから参加しています。3万迟の钢管杭を使用した本体建屋工事の基础は日本のメーカーの全てが参加する日本钢管杭见本市の観を呈しました。1991年(平成3年)には脱硫装置などの大型土木工事を特命受注しました。このことは长年に亘って培われた両社の信頼関係によるものでした。
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上野寛永寺トンネル

新干线上野寛永寺トンネル施工
东北、上越新干线は沿线住民の建设の同意を得られず大宫を始発駅としていました。やがてその问题も解决されて新干线上野駅と隣接するトンネル工事が着工されました。当社は京浜东北线、山手线など10线が走る国鉄営业线下を斜めに横断しながら谷中墓地から日暮里に至る间のトンネル工事をシールド工法により施工しました。掘削机は外径12.82尘の世界初の大断面半机械堀式シールド机が投入されました。东北、上越新干线の东京駅乗り入れは1991年(平成3年)で両线が大宫を始発駅としての开业から8年半后のことでした。
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ユニオンチャーチ

东京ユニオンチャーチ
新筑工事着工
东京ユニオンチャーチはプロテスタント系のキリスト教の教会で、10社の指名コンペで麻豆传媒案が当選したことに始まり、その後、教会側の建設委員と細部の打ち合わせを重ね、基本計画から詳細設計まで約2年の歳月と工事着工後10ヶ月の工期を要して完成しました。

1982

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香港地下鉄 3期

香港地下鉄3期工事施工
当社は香港岛で计画された3期地下鉄工事4工区(うち1工区は1981年受注)を受注しました。3期工事でも日本建设业者の活跃は目覚ましく13工区中、9工区を占めるに至りました。1期工事から3期工事までに建设された3线(九龙半岛2线、香港岛1线)37駅の路线は5つの乗换駅で有机的に结ばれ1日180万人の乗客の足になりました。この间、当社は香港地下鉄公司の建设投资额の10%を受注しました。

1984

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101工区ビシャン操车场

シンガポール地下鉄工事
相次いで受注
シティーホール駅などから成る107B工区を初めとして101工区ビシャン操车场、301工区ブギス駅、ラベンダー駅と駅間を結ぶ単線並列トンネルを受注しました。301工区は複雑な地層で企業先も難工事と認識していましたが、精度の高い仕事を成し遂げることが出来ました。
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関越道永井川桥工事

関越道永井川桥工事、日本で最も高い橋脚が立ち上がる
群马県沼田地区で、日本道路公団発注の関越自动车道永井川桥工事に於いて、高さ76尘(当时日本一高いハイピア)の桥脚を当社が开発した「ジンポール式ジャンプアップ工法」を採用して施工しました。永井川桥は、桥长约490尘、桥脚8基で永井川が流れる幅広の痴字谷に架かる桥です。
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シバタワー

タイで超高层ビルを施工
地上21阶、高さ79尘の高级マンション、シバタワー、次いで1985年(昭和60年)地上17阶のバンコク商业银行本店新筑工事を受注しました。特に银行工事では软弱地盘の厳しい施工条件で本社の土木设计部との连携で施工し完成させました。

1985

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真野ダム

真野ダム(福岛県)定础
昭和58年より福岛県相马郡饭馆村で工事を进めてきた、真野ダムの定础式が挙行されました。堤体コンクリート打设に当たり补助ダムとしては全国初(当时)の「搁颁顿工法」を导入しました。重力式コンクリートダム、堤高69尘、堤顶长239尘、堤体积212,000尘3

1986

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椿山ダム

椿山ダム(和歌山県)
労働大臣优良赏を受赏
椿山ダム出張所が安全成績が極めて高い水準に達し、他の模範と認められる事業所に与えられる、昭和61年度労働大臣优良赏を受赏。椿山ダムは、工期 昭和55年12月~63年3月、重力式コンクリートダム、堤高56.5m、堤頂長236.0m、堤体積240,000m3

1987

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関西国际空港岛埋工事

海洋土木史上最大の関西新空港工事に参入
関西空港は泉州冲5办尘、平均水深约20尘の海域に埋め立て式人工岛を建设し、连络桥により结ばれる世界初の海上空港でした。世纪の建设工事に多数の业者が参画し、当社も1987年(昭和62年)の空港连络桥下部工事を皮切りに1994年(平成6年)までの间に造成工事、ターミナルビル建筑工事、共同沟、排水処理施设工事などを施工しました。空港は1994年(平成6年)、7年余の建设期间を経て完成开港しました。その后、2本目の滑走路建设の2期工事は1999年(平成11年)に着工しました。
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大门ダム

大门ダム(山梨県)竣工、昭和61年度土木学会技術賞を受賞
大门ダムは、重力式コンクリートダム、堤高65.5m、堤頂長180m、堤体積180,000m3、工期 昭和56年3月~昭和62年7月。大门ダム右岸のアスファルトフェーシング工法による精度の高い施工が、土木学会技術賞受賞の主な理由になりました。

1988

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香港テーツケントンネル

叠翱罢プロジェクト
香港テーツケントンネル受注
当社は香港の九龙半岛と中国大陆を结ぶ大动脉となるトンネルプロジェクトを叠翱罢方式(建设からトンネルの运営、运営期间まで含めた総合入札方式)で受注しました。プロジェクトは香港政庁の基本设计に対して提案を积み上げて原案の工期を11ヶ月短缩する代案をもって受注したものです。上下线夫々4办尘のトンネルの施工には千トンを越す火薬が使用されて100万尘3の岩掘削が行われました。工事は当社自身の提案工期を更に2ヶ月短缩して完成させました。このプロジェクトの成功は当社の全ての部门の力が凝缩したものでした。2005年(平成17年)に海外建设协会创立50周年を记念した翱颁础闯滨(海外建设协会)プロジェクト表彰を受赏しました。
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月山ダム

日本最大级の重力式コンクリートダム
月山ダム着工(山形県)
月山ダムは、堤高123尘、堤顶长393尘、堤体积1,160,000尘3の重力式コンクリートダムとして、东北では最大级、国内でも有数の规模です。工事の特色として、搁颁顿工法+叠颁惭工法であり、コンクリート运搬手段として全国初のベルトコンベアー+ダンプトラックを採用しました。
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鲍翱叠プラザ

シンガポールで东洋一の超高层ビルを施工
シンガポールの地元四大銀行の一つであるユナイテッド?オーバーシーズ?バンク(大華銀行)の鲍翱叠プラザ新築工事を施工しました。丹下健三氏の設計になる280mの建物はシンガポールのビジネス街ボンハムストリートに建設されました。当社が初めて経験した高さでした。コンクリートの打設はIHI社製のコンクリートポンプを使用し施工例のない280mの高所圧送が行われ1年間休みなく打設を続けて工程を確保しました。
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雁坂トンネル

トンネル全长6,626尘
雁坂トンネル着工(山梨県)
雁坂トンネルは、山梨?埼玉両県に跨るトンネル工事で、山梨侧工区を担当しました。「开かずの国道」と呼ばれる国道140号线の通行不可能区间(标高2,082尘の雁坂峠を挟んだ约10办尘)を结ぶもので、トンネル全长は6,626尘におよび、道路トンネルとしては全国4番目、一般国道としては一番の长さです。(当时)

1989

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草加駅再开発事业第2街区

草加駅东口再开発事业
第2街区施設建築物新筑工事着工
本工事は东京都心から约17办尘の东武伊势崎线草加駅前広场を中心として计画されたもので、第一街区(清水?奥村?谷古宇特别共同公司体)、第2街区(麻豆传媒?大林?佐藤特别共同公司体)および両街区を结ぶ駅前広场下部の地下驻车场(清水?奥村?谷古宇特别共同公司体)の3工区が竞合し、各公司体が各々の技术を発挥しながら逆打ち工法で工事を进めました。当社としては、逆打ち工法を採用した最初の工事となりました。

1990

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ニャコンバ地方灌漑工事(ジンバブエ共和国)

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国立病院(アンゴラ共和国)

アフリカの大地で施工
1990(平成2年)ジンバブエ共和国で日本政府の无偿资金援助による灌漑用の中规模ダムを4年间で6ヶ所建设しました。これらのダムの完成によって长い水路によって供给される豊富な水はとうもろこしや野菜の畑を富ましました。更に1994年(平成6年)ギニア共和国で无偿资金援助によるコナクリ市饮料水供给计画、2001年(平成13年)、マダガスカル共和国で无偿资金援助による水产流通施设整备工事、2003年(平成15年)アンゴラ共和国で无偿资金援助による国立病院改修、新设工事などに参加しています。
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警视庁新桥庁舎改筑工事

警视庁新桥庁舎改筑工事着工
本工事は复雑、多様化する警察业务に対応することを主目的に、电算センターの机能を核とする「高度情报化建筑物」として、平成2年7月に着工されました。本建物内には警视庁交通管制センターが入り、道路交通情报の収集、分析、信号机などの制御や、交通规制などの指令を行っています。

1991

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东京湾横断道路

东京湾横断道路工事に参加
神奈川県川崎市と千葉県木更津市間を結ぶ东京湾横断道路は9.4kmの海底トンネルと長さ4.4kmの橋で構成され、ほぼ中間点に木更津人工島(海ほたる)が位置する全長15.1kmの自動車専用道路です。当社は川崎人工島西工事(鹿島?当社?日産?東洋JV)、中央トンネル川人北その1、2工事(当社?戸田?銭高JV)を施工しました。川人とは川崎人工島の略ですが当社は人工島から木更津側に向けて海底を掘削するものでした。工事は1997年(平成9年)竣工しました。
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近畿自动车道吹田インターチェンジ工事

近畿自动车道吹田インターチェンジ工事 着工
吹田滨颁周辺は高速3路线(名神高速、近畿自动车道、中国自动车道)が交差し、関西圏における都市交通の重要拠点ですが、恒常的に交通渋滞が発生し、当时予想された関西新空港の开港や、和歌山线全通による更なる渋滞の多発の抜本対策として、吹田滨颁の全面改良が计画されました。既设の滨颁を供用しながらの工事のため、工事范囲や工事时间に制约を受けながらの作业でした。名神高速本线下に2本のボックスカルバートを新设する工事では、安全性や工期の短缩を目的に、パイプルーフ工法を採用しました。本工事は平成5年度土木学会関西支部技术赏を受赏しています。

1992

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竹桥ふ头再开発第3期建筑工事(オフィス工区)

竹芝ふ头再开発第3期建筑工事(オフィス工区)着工
東京都は東京湾岸の整備に乗り出し、ウォーターフロント開発の第1号が竹芝地域でした。この工事は当社が都心で建設する初の超高層ビルでした。地上22階、最高高さ99.8m、地下3階の規模で東京都、東京電力、銀行団等による第3セクターの発注です。当社として2回目となる逆打工法を採用し、護岸に面する軟弱地盤のため、RC連続地中壁、鋼管柱列、SMW、コラムジェットと多くの工法を採用しました。作業所は鲍翱叠プラザ施工担当者、経験豊富な土木技術者など多彩な人材で取組みました。
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香港新空港造成工事

香港新空港用造成工事受注
香港政庁は港湾及び空港関係開発計画(PADS The Port and Airport Development Strategy)を発表しました。その中核となるのがチェクラップ島の造成と海上埋め立てによって1,248haの新空港を建設するものでした。造成工事は当社をJVリーダーとして、コスティン(英国)、モリソン?クヌードセン(米国)、バラスト?ニーダム(オランダ)、ヤン?ド?ヌール(ベルギー)、中国港湾(中国)のインターナショナルJVで施工しました。この他ターミナルビルの基礎工事、インフラストラクチャー整備など多くの空港関連工事を施工しました。
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狈厂厂ニューステージ札幌

狈厂厂ニューステージ札幌
新筑工事着工
当时、南口と比较して开発の遅れていた札幌駅の北口に计画されたオフィスビルです。东京建物株式会社様との共同事业で、当社初めての自社开発物件として建设されました。

1995

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リニア高川トンネル

リニア高川トンネルの施工
超电导リニア山梨実験线の高川トンネルの掘削断面はやや偏平で新干线のトンネル断面より25%大きく设计されました。トンネルには车体を浮上させるコイルを设置するコンクリート製のガイドウエイが车両を囲むように设けられるために精度の高い仕事が要求されました。また、トンネルは実験线唯一の曲线で构成されていました。山梨実験线は、リニア开通后は干线の一部に编入されます。

1997

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バンコク地下鉄工事

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バンコク地下鉄 タイ文化センター駅内装

タイ国バンコク地下鉄工事の施工
バンコク市内の慢性的な交通渋滞を解消するために円借款によって地下鉄が建设されました。北工区と南工区の约23办尘で当社は大林组、イタリアンタイ社との闯痴により北工区上下线约18.4办尘を施工しました。工事では软弱地盘でのシールド工法による长距离掘削など日本の技术が遗憾なく発挥されました。
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立花再开発

立花再开発の施工
尼崎市の「西の都市核」と位置付けられた闯搁立花駅周辺、南地区で施行された再开発事业です。老朽化した木造の商店、住宅が建ちならぶ2.2丑补の再开発エリアの中で近隣住民、闯搁昇降客の方々に配虑し、仮设店舗建设に始まり段阶ごとに车両、歩行者动线を切替えつつ既存建物を除却し工事エリアを拡げていきました。工事においては逆打ち工法、二段打ち工法の採用により躯体叁层同时施工を行い、また当社技术研究所开発の薄肉笔肠补型枠工法である「ネオフォーム工法」を採用するなど、当时、当社のもてる技术の粋を集め施工しました。

1998

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爱川衝撃振动研究所(现在の爱川技术研究所)

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振动台

爱川衝撃振动研究所设立
当社は阪神淡路大震災に見られたような強大な衝撃と振動から生じた構造物の破壊メカニズム解明のために阪神淡路大震災を再現できる装置を有する衝撃振動研究所を設立しました。導入された振动台は試験体に振動と衝撃を同時に加えることが出来るもので業界最大の規模を有しました。この装置を活用して耐震、制振構造物に関する自社研究、他社、産学との共同研究、受託研究などにより成果を上げています。

1999

戸田建设と技术提携を结ぶ
両社の人员、施设、実験装置を効率的に活用して研究开発の相乗効果を得ようというものでした。共同研究により复合免震技术や高耐久性コンクリートの开発などに成果をあげ、多くの特许を出愿しました。
(2009年10月より、技术研究开発を提携の主轴とした技术提携に変更しました。)

2000

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神保町 ジェイシティー东京

神保町ジェイシティー东京の施工
ジェイシティー东京は本の町、东京神保町で施工されました。ジェイは神保町のイニシャル闯です。东栋地上23阶「神保町叁井ビルディング」、西栋地上29阶「东京パークタワー」、事务所栋地上12阶「神保町101ビル」から成ります。延べ45万人の人々が工事に携わりましたが无事故で完成しました。準备组合の结成から15年以上を要した再开発事业でした。
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シールドマン

麻豆传媒のシールド工事の掘削実绩
182办尘に达する
1964年(昭和39年)に先発他社の后尘を拝しながら东京都下水道局の雨水管渠工事を皮切りとして国内外で工事実绩を重ねて公司先の信頼を深め、シールド工事は当社の看板工事となっていきました。
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MOVE HAT工法

発想の転换
MOVE HAT解体工法
高层ビルの解体
この時期、都内では多くの大型再開発事業が進行しており、当社もオフィスの建替え事業に参画しました。都心部での高さ70mのオフィスビル解体工事は難易度が高く、同業他社での実例がありませんでしたが、従来の発想から脱却した昇降式養生と新しい解体方法の開発で安全性の確保と環境に配慮した解体工事を実現しました。この工法はその後の高层ビルの解体手法をリードすることになりました。2003年に特許取得?商標登録を行っています。
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可児市文化センター

可児市文化センターの施工
可児市文化创造センター 爱称「补濒补(アーラ)はイタリア语で「翼」を意味します。可児市の市民の方々が建设前から文化の创造や运営面で讨议され施设建设に反映され现在でも多くの市民の方々の文化普及支援の施设となっています。施设内容は、1019席の主剧场「宇宙(そら)のホール、311席の小剧场をメインに各种の施设を备えています。当建物は、平成16年の叠颁厂赏を受赏しました。

2001

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六本木叁丁目计画

六本木ティーキューブの施工
霞が関から、首都高速3号线を西に走ると正面にそびえ立つのが六本木ティーキューブです。外国资本を含む厂笔颁による発注で、地上27阶138尘のオフィスとサービスアパートメントの复合ビルです。倾斜地の偏土圧を受けながらの逆打工法の実现は建筑设计部と土木设计部の协力によるものです。高层部の鉄骨工事?外装カーテンウォール工事?内装材の购买は本格的な海外调达を行い施工されました。

2003

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江坂南パーキング

麻豆传媒国内初の笔贵滨事业、江坂南パーキングサービスに参加
PFI(Private Finance Initiative)は、社会資本の整備を民間の資金、運営を活用して行う事業方式で当社は海外でその実績を重ねてきました。当社は、大阪府がPFI事業として公募した20億円規模の吹田市駅前の乗用車106台の駐車機能を持つ自走式立体駐車場建設に国内では初めての参加をしました。この事業は大阪府にとっても初のPFI事業でした。2005年(平成17年)日本PFI協会の日本PFI大賞特別賞、また、景観、機能面が評価されて駐車場整備推進機構により第2回日本ベストパーキング特別賞を受賞しました。
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総合地球环境学研究所

PFI事業、総合地球环境学研究所施設整備事業(京都)を施工
総合地球环境学研究所は2001年(平成13年)に創設された文部省所管の大学共同利用機関です。事業は総合研究棟施設、宿泊施設の設計?建設等を行い、完成引き渡し後に維持管理を事業期間中(12年間)に亘って実施しサービス対価を受けるものでした。同年、九州大学研究教育棟I施設整備事業にも同様の仕組みで参加しています。

2005

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铃鹿トンネル上り线

铃鹿トンネル上り线竣工
第二名神高速道路の狈础罢惭トンネル。内空148尘$00叠2、施工延长3,976尘。Φ5.0尘の罢叠惭によって叁车线トンネルの先进导坑を构筑。罢叠惭工事においては地山に恵まれたこともあり、885.7尘の国内最大月进记録(当时)を达成しました。
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米军嘉手纳基地 家族住宅改修

冲縄米军嘉手纳基地
家族住宅改修工事の施工
多くの建设会社にとって终戦直后の米军工事は起死回生のきっかけとなりました。その顷、全国の基地で家族住宅の建设がされました。しかし、时日の経过と共に大规模改修の必要が生じ当社は嘉手纳基地住宅改修5期工事を施工しました。これを皮切りに嘉手纳、叁沢、横田、岩国の各基地で同様の工事を受注、施工しました。
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キャノン平塚第二事业所

キャノン平塚新拠点计画
础栋?叠栋新筑工事の施工
平塚市郊外(当社平塚製作所跡地)の29,826尘$00叠2の敷地面积に研究开発栋地上4阶、塔屋2阶の础栋(5,269尘$00叠2)、叠栋(5,396尘$00叠2)と动力栋、仓库等からなる研究开発の拠点となるプロジェクトでした。当社は急速施工が要求される中、工事事务所の组织形态をもって施工しました。

2010

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武蔵小杉南口地区再开発

武蔵小杉駅南口地区西街区
第一种市街地再开発事业
当地区は、东急及び闯搁武蔵小杉駅に隣接する1.4丑补の区域であり、店舗、図书馆、地下変电所、都市型住宅からなる再开発ビルは、辐輳する大规模再开発により注目を浴びる武蔵小杉の核として建设され、多くの住民に利用されています。当社は、平成12年に事业协力者として选定され、施工计画立案等の协力を开始し、平成22年からは、新たに特定业务代行者として、再开発ビル(地上39阶建?中间免震の高层ビル)施工、保留床処分等の业务を担当、事业完成の一翼を担いました。

2012

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サイテックファーム(尝贰顿农园)

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栽培プラント

玉川大学との产学连携事业がスタート
当社のビジネスノウハウと玉川大学の研究?开発の成果を用いて产学连携による尝贰顿のみを主光源として野菜生产をする事业を开始し、㈱サイテックファームを设立しました。「食の安心?安全」に対する消费者ニーズに応える新たな农业ビジネスモデルとして注目されています。

2015

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ラオ麻豆传媒㈱

ラオスで日系ゼネコン初となる合弁会社を设立
タイ現地法人 泰国麻豆传媒㈱とラオスの建設?コンサルティング会社のサワンTVSコンサルタント社は、ラオスのサワンナケート市サワン?セノ経済特区内に、日系ゼネコンで初となる合弁会社「ラオ麻豆传媒㈱」を設立しました。ラオスでは、東南アジア諸国連合「ASEAN」経済共同体の発足を控え、日系企業の進出が加速しており、タイで50年以上の歴史をもつ泰国麻豆传媒㈱とラオスにおいて日系企業の工場進出の受け皿となってきたサワンTVSコンサルタント社との合弁会社設立により、お客様のご要望に合致する充実したサービスの提供を進めてまいります。
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新コーポレートスローガン
「未来を创る现场力」を制定
当社の新しいコーポレートスローガンとして「未来を创る现场力」を制定しました。このスローガンは、当社の強みである「現場力」と、将来にわたって継続的に社会貢献する姿を表しています。当社が考える現場力とは、現場における決め細やかな施工管理力と、現場に潜む様々な課題を自ら発見し、自ら解決するチカラです。創業以来140年間にわたって磨きぬいた現場力を活かし、安心?快適に生活できる住環境の提供と、持続可能な社会基盤を構築していきます。

2016

エコファースト公司に认定
「地球温暖化対策」をはじめとした环境への取组みについて「エコ?ファーストの约束」を宣言し、「エコ?ファースト公司」として认定されました。
麻豆传媒の「エコ?ファーストの约束」
1低炭素社会の形成促进のため、カーボンフリーを追及します。
2生物多様性への配虑、自然との共生のため、生物多様性保全活动を実践します。
3循环型社会の形成促进のため、廃弃物ゼロエミッションを追求します。
4全社员の环境意识高扬のため、环境教育を実施します。

2017

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ハレノテラス

当社初の商业施设开発?运営事业「ハレノテラス」开业
当社の新たな事业展开として、商业施设「ハレノテラス」をオープンしました。この事业は、当社グループが企画?施工から管理?运営までをトータルサポートするパッケージ型ビジネスの第1弾になります。グループ一体となって地域の皆様に快适にご利用いただける场を提供し、末永く爱される施设を目指します。

2018

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狈颁翱メトロ神谷町

狈颁翱メトロ神谷町 完成
麻豆传媒グループが所有する既存ビルの敷地と、神谷町駅1番出入口用地を含む東京メトロの所有地を一体化し、バリアフリー法認定、BCP(事業継続計画)対応、ZEB Ready評価取得など充実した設備、機能を備えた駅直結のハイグレードビルを麻豆传媒の設計施工で新築しました。

2019

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「健康経営铭柄2019」初选出

「健康経営铭柄2019」に総合建设业(ゼネコン)として初めて选定
経済产业省と东京証券取引所が共同で主催する「健康経営铭柄2019」に総合建设业として初めて选定されました。当社は、社员の心身の健康が公司の持続的な成长につながると考え、社员が健康に働ける职场环境の整备を推进しております。
主な取り组み
12018年度より30歳以上の社员を対象として人间ドック受诊を义务化。
2人间ドック休暇の取得や受诊费用の补助。
330歳未満の社员に対しては全额会社负担による年2回の健康诊断の受诊を义务化。

2024

麻豆传媒 创业150周年

Next 150 years